縄文幻想
人にはアイデンティティが必づ必要かどうか解らないが私の場合縄文時代というのを一つのアイデンティティにしてきた
縄文における自然との共生長期にわたる平和神々との親密大胆な美意識 秀真伝の感動的物語 等々 縄文時代を理想的社会とつい見てしまう
しかしそれは幻想かもしれないのだ 現代社会の息苦しさから逃れたいという気持ちが生み出した幻かもしれない
話は急に変わる様だが変わらない 70年代中期にパンクムーヴメントというのがあった パンクには色々な意味があったがその一つにローカリズムというのがあると思う「スターを求めるな!自分の所に帰れ!」
ロックは黒人のブルースをアイデンティティにしたが日本人は黒人など知らない
(日本人のレゲエというやつもどこに立脚しているのかわけわかんない)
現代日本人のアイデンティティは伝統的日本人に求められるそしてその背景には縄文がある 私はこのように考えた
ところが今と過去の間には必づ時空の歪みがある どういうことかというと今の我々が考えられる概念や我々を形成している素材自体が縄文やかつて人々とまるで異なるということである
我々が動くと歴史が動くーよく言われる
例えば伊豆に流されていた頃の源頼朝はどんな心境であったかを説明するさい戦中は「平家打倒虎視眈々とうかがうような気持ちだっただろう」ととく一転して戦後は小市民精神が反映されて「なるべく目立たないようにひっそりと大人しくという心境だったに違いない」
本当はどうなのかは永遠に解らない我々の中の頼朝が変わるだけである これは今後研究が進めば解明されるとかそいうもんじゃない
以上の事を踏まえた上で純粋な日本人になってみよう
これは自らをフィクション化する試みでもある